家族ってなんだろう(最終章)ー答えが出ないー
いつも私の駄文長文をお読みくださっている皆様、ありがとうございます。
気持玉に励まされております。
自分の中でテーマの答えを見つけたくて、このシリーズを書いてきましたが、答えは見つかりませんでした。
いつまでも過去のことを振り返って、うだうだ言ってるんじゃないよ!と、自分で自分にツッコミを入れたくなります。
お読みくださっている方々にも、まどろっこしい思いがおありかと想像します
自分でも完了させたいと思いながら、まだ父が健在であることから現在進行形の部分もあり、悩み尽きないといったところです。
なかなか纏まりませんが、これを最終記事にしたいと思っております。
いつもながらのお付き合いをどうぞよろしくお願いいたします。



全てを父のせいにするつもりもない。
我が家だけが不幸で、他の人たちは皆んな幸せに満ち溢れているかといえば、それも違うのかもしれない。
どこの家庭にも多かれ少なかれ様々な厄介なことがあり、親子関係、家族関係には、どれが正解とかお手本などはないのかもしれない。
親を選べずに私はこの家に生まれてしまった。
親も理想の子を持ちたかったのに、もっと良い子が生まれて欲しかったと思っていたのかもしれない。
何よりも男児が生まれなかったことは、父には失望以外のなにものでもなかっただろう。
「子供は嫌いだ」と子供だった私に面と向かって言えるくらいだから、愛情はなかったと思う。
少なくとも、私には可愛がられた記憶も実感もない。
2人目が生まれたら、また女だったことで、さらにがっかりしたようだ。
女子だからガッカリで、男児だったら良かったと考えること自体、命がけで出産した母に失礼であり、生まれてきた命を軽んじているということに父は気付いていないのだろう。
父は、私が生まれた時も妹が生まれた時も、退院するまで病院に面会にすら行かなかったという。
ただ、私から見れば、父は妹のことは可愛がっていたように思えた。
小学校の夏休み、早朝から私に課題を与え勉強するように命じ、父は妹を散歩に連れて行っていた。
散歩から帰ると、私にどれだけ勉強が捗ったかを確認し、質問に答えられないと私は激しく怒鳴られた。
朝っぱらから、近隣に聞こえるような大声で詰られたものだった。
私が知る限り、妹には課題を出したこともない。
散歩から帰り、朝食の後は夏休みのテレビアニメを観る妹と、テレビ禁止で勉強だけをさせられていた私の構図に不公平感を覚えたが、妹との差別化は生まれた時からあったのだから抵抗のしようもない。
自分の子育て方針が私を傷つけるだけでなく、妹をも傷つけていることに考え及んでいない。
子育てと書いているが、父は子育てをするつもりはなかったのかもしれない。
子供の個性を伸ばそうとか、成長を見守るといった子育ての観念はなかったものと思われる。
自分が家族を支配することが、父のやりたかったことなのだろうと思う。
私を混乱させたのは、父の長女教育は一貫性がなかったということだ。
私は、父の行き当たりばったりの教育方針に振り回され、翻弄された気がしている。
最初に父が求めたのは、頭の良さ、賢さ、良い学歴だったはずだ。
父の同期の人の娘と比較され、良い学校に行くことは私に課された使命だった。
私は父の思う通りに受験して合格し、遠い学校に通った。
何度も受験を乗り越え、好きなピアノも辞めさせられた私は父の思う通りに進学した。
ところが大学卒業近くになると、私に良妻のイメージを求めた。
女は男に仕え、尽くすことこそ幸せなのだと、その価値観を持つように命じられた。
友達の多かった私に、
「女に友達は必要ない」
と、言い切った。
父の私への要求が矛盾だらけに思えた時、子供の頃とはまた別の苦悩を私は抱えることになる。
男性に従順で、夫に尽くすことこそ女の生き甲斐だと考えるような女性にしたかったのなら、ここまで勉強勉強と言われ、テストの減点に目を三角にして怒る必要があっただろうか?
勉強よりもむしろピアノや絵画など情操教育を受けさせ、おしとやかな私立の女子校に突っ込んでおけばよかったのではないかと思う。
それこそ母の通っていたミッション系の女子校で、「ごきげんよう」の世界にいた方が良い妻になったのではないかと思う。
男子の多いバリバリの受験校に進学させられ、小学1年生の時から制服を着てバス通学し、家に帰ればドリルが4冊テーブルに広げられているような生活をした意味は何だったのだろう?と思う。
なまじ中途半端に難しい学校に通ったおかげで、男の人と対等にやり合うような可愛げのない女子に仕上がったと思っている。
素質の問題もあるから全てを父の責任に転嫁するつもりはないものの、自己主張や自己思想を大事にする学校教育を受けた私は、父の理想とする良妻とは程遠いまま20代を迎えていた。
私の性格は、かなりひねくれていると自覚している。
1歳の頃からお菓子食べ放題の妹を横目に、煮干ししかもらえなかった私は、性格もひねくれるしかなかった。
リビングで母や従姉妹たちと一緒に楽しそうにテレビを見放題の妹の笑い声は、隣室で一人で勉強をする私を苛立たせた。
母と話す時間もなく、トイレで見えない架空の人と話す小学生時代だった。
このような生活をしていれば性格も悪くなるというものだが、「お前は性格が悪い」と父から言われると、それはそれで傷つく。
女がお金を稼げば生意気になるだけだから、私には仕事をするな、と言った。
しかし、妹には仕事を紹介した。
その違いの意味もわからない。
父が本当のところ、どうしたかったのかわからない。
もしかすると、父自身がわかっていなかったのかもしれない。
アダルトチルドレンの連鎖を何処かで止めなければならないことは、私が子育て中に悩みながら考えていたことだった。
父の子供の頃には、明治時代に生まれた両親の作る家庭の中で、迷い悩むことすらできなかったのかもしれない。
父が愛情溢れる温かい家庭の味を知らずに育ったがため、我が子や自分の家庭とどのように向き合えば良いかがわからなかったのかもしれない。
父は家族を支配しようとして、結局は家族にそっぽむかれた終末期を迎えている。
現在、高齢者住宅の自室で、父が何を考えて暮らしているのか私にはわからない。
私たちが訪問した去年の二月。
父が
「俺はここで死ぬのを待つだけだ。お前たちにその気持ちがわかるか」
と、怒った表情で、言い捨てた心境は私にも想像つく。
その言葉は本音なのだと思う。
地位も名誉も関係なく、ただの高齢者として扱われる施設で、何をモチベーションにしているのかもわからない。
私の従兄弟に時々電話をしたり、訪問してもらって、自論を話すことが唯一の楽しみなのかもしれない。
人生の終盤になって、孤独しか感じられない父は気の毒だと思う。
私たちは、できれば寄り添ってあげたいと願ってきたが、怒鳴る、威嚇する、罵倒する、という形で返ってくれば、私たちの気持ちは向かなくなってしまう。
父と会った最後は、去年の2月3日だ。
あの日、私の家族全員を怒鳴られたことで、以来、父の施設に2度と訪問しないと私は決めた。
電話もしていない。
夏には、私の息子に会いたい旨を私の従兄弟に言い、従兄弟から息子に連絡があったようだが、息子は断った。
従兄弟から私にも連絡があったが、息子本人の意思に任せているので、私がどうこう息子に言うつもりはないと伝えた。
ただ黙っているのもいけないと思い、父に手紙を書いた。
何度も何度も書いては破り捨てることを繰り返し、やっと完成させた手紙は去年の10月に父に出した。
父は手紙を読み、激怒して、病気の妹に電話をした。
私は今まで、何度も努力した。
父と普通の親子の関係を築こうと頑張ったけれど、うまくいかなかった。
「子供の頃から、お前を怒鳴って悪かった」と、1ミリでも思ってくれたなら、私は救われたかもしれない。
その一言だけで、私は子供時代からの父の暴言を許すことができたかもしれない。
年老いた父を一人にしておくことなどなかったかもしれない。
私は、自分が育った家庭の中で、幸せだったと思ったことは一度もない。
父の人生は、幸せだったのだろうか。
【終わりに】
お読み下しまして、ありがとうございました。
なんとも尻切れトンボで歯切れが悪い終わり方ですが、結論は出ないまま終わります。
今はコロナのおかげで父の施設に誰も行くことはできません。
ただ、最近、ニュースに取り上げられ、国会でも厳しくやりとりのあった問題について、父の書いたと思われる文章(部下にまとめさせたようですが)がネットでも読めたので全文を読みました。
そのことで、従兄弟たちからの連絡が入ることがありました。
その従兄弟から
「そろそろ、あなたからおじさんに電話をしてみたらいかがですか」
というラインが来ました。
私は従兄弟に、父がお世話になっていることのお礼だけ述べ、電話に関する話はスルーしました。
従兄弟にはわかるはずのない、父と娘の66年の歴史があります。
どうしてこうなってしまったのか、本当のところ私にもわからないことを従兄弟に説明することはできません。
私が一つだけ、従兄弟に言えることがあるとするならば、
「普通の家庭に生まれたかった。」
最後に、私から父に送った手紙を添えます。
『十月に入り、随分と過ごしやすくなってまいりました。ご無沙汰をしておりますが、お変わりなくお過ごしのことと存じます。
九月十日に、Cが無事に元気な男児を出産し、曽祖父様になられましたこと、お慶び申し上げます。Cの産後ケア及び育児のお手伝いは、Sと私、ヘルパーさんとで交代に行い、順調に進んでおります。私も束の間、楽しいババ役をさせてもらうことができました。妹子の発病、今後の治療のこと、そして何よりも本人の気持ちを考えますと複雑な思いを抱えながらの赤ちゃんのお世話でした。
今日から妹子は移植に向けての準備の入院が始まり、移植後には辛い反応も予想されますが、どうか強い精神力で打ち克って欲しいと願うばかりです。
長期入院生活に入る前に、初孫ちゃんと存分に触れ合う時間を作って欲しいという願いから、国慶節休みで帰国していた夫の運転で妹子の家まで迎えに行き、Cの家へ連れて行きました。ちょうど休みだったSも一緒に行くことができ、しばし母娘3人の楽しい時を初孫ちゃんを囲むようにして過ごしていました。妹子の腕の中で様々な表情を見せる初孫ちゃんに癒され、妹子は治療への勇気とパワーをもらえたと喜んでいました。
Cが「家族っていいね」と、ポツリと発した言葉は、とても印象的でした。夫や私も含め、ビッグファミリーという実態を感じた瞬間でもありました。
幼少の頃から、私には家族の意味がわかりませんでした。思ったことを言えず、いつも緊張と恐怖があるのが家でした。
数年前、津田塾大学出身の平木典子さんの“アサーション“について学びました。
人には自分と同じくらい意見があるので、自分が意見を述べるのと同じだけ人の意見を聞くことがアサーティブな関係を築く基本であり、それこそが健全な人間関係を作るのだという内容でした。私は子供にも人格があり、尊重すべきと考えます。自分の子を育てる段階では、数々の失敗を重ねて参りましたが、子供から教わることも多くあり、親として未熟なところを育ててもらったと感じています。
意見の押し付けは一方通行の関係で終わってしまい、良好な人間関係を築くことができないものだということも学びました。
妹子も私も大切な家族が少しずつ増えていく幸せを感じ、姉妹の関係も絆が強くなっていることを嬉しく思います。
妹子の発病はとても悲しく辛いことですが、このことでCの出産をより一層家族みんなで祝福し、初孫ちゃんが私たちをさらに身近に引き寄せてくれたように思っております。
お彼岸に娘婿さんが車を出してくれて、多磨のお墓に参りました。相当に荒れていて、母の実家の後継ぎも母の妹の家族も墓参に来た様子はありませんでした。折れた枝やたくさんの落ち葉を娘婿さんが綺麗に掃除してくれる姿を見て、私にも良い家族が増えたことを改めて実感しました。生きている人の生活の方が大事だから、いいのよ、という母の声が聞こえる気はしたものの、あそこまで荒れ放題のお墓に呆れていることでしょう。掃除してくれる娘婿さんの姿を優しい笑顔で見守ってくれていたような気もしておりました。
妹子の今回の入院は、今までとは大きく違います。ガラス張りのクリーンルームで厳しく管理されることになります。私はお見舞いに行けません。家族もかなり厳しく制限されることになります。自分の悪いものを叩き出し、ドナーから提供された造血幹細胞が妹子の体内で新しく血液を作るという大変なことが行われるのですから、拒絶や様々な合併症も心配され、完全に正常に機能するまでには数ヶ月はかかります。
今までのように電話を受けられる状態ではないことをご承知おきくださいませ。
私はそろそろCのところに行く必要もなくなりましたので、3ヶ月留守にした中国に戻ります。生徒たちが待ってくれていますので、私は自分のやるべきことを粛々としながら、妹子の一日も早い快復を祈るだけです。
実家の様子は、娘婿さんと娘が時々行ってくれます。先日の台風の時には、仕事帰りの娘婿さんが行ってくれました。
妹子家族も、私の家族も、今は自分の仕事と生活を通常通り行いながら、心の中では全員が妹子のことをいつも気にかけています。
どうぞ一緒に祈ってくださいませ。
お父様もどうぞご自愛くださいませ。 十月十日 ゆーまま』
気持玉に励まされております。
自分の中でテーマの答えを見つけたくて、このシリーズを書いてきましたが、答えは見つかりませんでした。
いつまでも過去のことを振り返って、うだうだ言ってるんじゃないよ!と、自分で自分にツッコミを入れたくなります。
お読みくださっている方々にも、まどろっこしい思いがおありかと想像します
自分でも完了させたいと思いながら、まだ父が健在であることから現在進行形の部分もあり、悩み尽きないといったところです。
なかなか纏まりませんが、これを最終記事にしたいと思っております。
いつもながらのお付き合いをどうぞよろしくお願いいたします。



全てを父のせいにするつもりもない。
我が家だけが不幸で、他の人たちは皆んな幸せに満ち溢れているかといえば、それも違うのかもしれない。
どこの家庭にも多かれ少なかれ様々な厄介なことがあり、親子関係、家族関係には、どれが正解とかお手本などはないのかもしれない。
親を選べずに私はこの家に生まれてしまった。
親も理想の子を持ちたかったのに、もっと良い子が生まれて欲しかったと思っていたのかもしれない。
何よりも男児が生まれなかったことは、父には失望以外のなにものでもなかっただろう。
「子供は嫌いだ」と子供だった私に面と向かって言えるくらいだから、愛情はなかったと思う。
少なくとも、私には可愛がられた記憶も実感もない。
2人目が生まれたら、また女だったことで、さらにがっかりしたようだ。
女子だからガッカリで、男児だったら良かったと考えること自体、命がけで出産した母に失礼であり、生まれてきた命を軽んじているということに父は気付いていないのだろう。
父は、私が生まれた時も妹が生まれた時も、退院するまで病院に面会にすら行かなかったという。
ただ、私から見れば、父は妹のことは可愛がっていたように思えた。
小学校の夏休み、早朝から私に課題を与え勉強するように命じ、父は妹を散歩に連れて行っていた。
散歩から帰ると、私にどれだけ勉強が捗ったかを確認し、質問に答えられないと私は激しく怒鳴られた。
朝っぱらから、近隣に聞こえるような大声で詰られたものだった。
私が知る限り、妹には課題を出したこともない。
散歩から帰り、朝食の後は夏休みのテレビアニメを観る妹と、テレビ禁止で勉強だけをさせられていた私の構図に不公平感を覚えたが、妹との差別化は生まれた時からあったのだから抵抗のしようもない。
自分の子育て方針が私を傷つけるだけでなく、妹をも傷つけていることに考え及んでいない。
子育てと書いているが、父は子育てをするつもりはなかったのかもしれない。
子供の個性を伸ばそうとか、成長を見守るといった子育ての観念はなかったものと思われる。
自分が家族を支配することが、父のやりたかったことなのだろうと思う。
私を混乱させたのは、父の長女教育は一貫性がなかったということだ。
私は、父の行き当たりばったりの教育方針に振り回され、翻弄された気がしている。
最初に父が求めたのは、頭の良さ、賢さ、良い学歴だったはずだ。
父の同期の人の娘と比較され、良い学校に行くことは私に課された使命だった。
私は父の思う通りに受験して合格し、遠い学校に通った。
何度も受験を乗り越え、好きなピアノも辞めさせられた私は父の思う通りに進学した。
ところが大学卒業近くになると、私に良妻のイメージを求めた。
女は男に仕え、尽くすことこそ幸せなのだと、その価値観を持つように命じられた。
友達の多かった私に、
「女に友達は必要ない」
と、言い切った。
父の私への要求が矛盾だらけに思えた時、子供の頃とはまた別の苦悩を私は抱えることになる。
男性に従順で、夫に尽くすことこそ女の生き甲斐だと考えるような女性にしたかったのなら、ここまで勉強勉強と言われ、テストの減点に目を三角にして怒る必要があっただろうか?
勉強よりもむしろピアノや絵画など情操教育を受けさせ、おしとやかな私立の女子校に突っ込んでおけばよかったのではないかと思う。
それこそ母の通っていたミッション系の女子校で、「ごきげんよう」の世界にいた方が良い妻になったのではないかと思う。
男子の多いバリバリの受験校に進学させられ、小学1年生の時から制服を着てバス通学し、家に帰ればドリルが4冊テーブルに広げられているような生活をした意味は何だったのだろう?と思う。
なまじ中途半端に難しい学校に通ったおかげで、男の人と対等にやり合うような可愛げのない女子に仕上がったと思っている。
素質の問題もあるから全てを父の責任に転嫁するつもりはないものの、自己主張や自己思想を大事にする学校教育を受けた私は、父の理想とする良妻とは程遠いまま20代を迎えていた。
私の性格は、かなりひねくれていると自覚している。
1歳の頃からお菓子食べ放題の妹を横目に、煮干ししかもらえなかった私は、性格もひねくれるしかなかった。
リビングで母や従姉妹たちと一緒に楽しそうにテレビを見放題の妹の笑い声は、隣室で一人で勉強をする私を苛立たせた。
母と話す時間もなく、トイレで見えない架空の人と話す小学生時代だった。
このような生活をしていれば性格も悪くなるというものだが、「お前は性格が悪い」と父から言われると、それはそれで傷つく。
女がお金を稼げば生意気になるだけだから、私には仕事をするな、と言った。
しかし、妹には仕事を紹介した。
その違いの意味もわからない。
父が本当のところ、どうしたかったのかわからない。
もしかすると、父自身がわかっていなかったのかもしれない。
アダルトチルドレンの連鎖を何処かで止めなければならないことは、私が子育て中に悩みながら考えていたことだった。
父の子供の頃には、明治時代に生まれた両親の作る家庭の中で、迷い悩むことすらできなかったのかもしれない。
父が愛情溢れる温かい家庭の味を知らずに育ったがため、我が子や自分の家庭とどのように向き合えば良いかがわからなかったのかもしれない。
父は家族を支配しようとして、結局は家族にそっぽむかれた終末期を迎えている。
現在、高齢者住宅の自室で、父が何を考えて暮らしているのか私にはわからない。
私たちが訪問した去年の二月。
父が
「俺はここで死ぬのを待つだけだ。お前たちにその気持ちがわかるか」
と、怒った表情で、言い捨てた心境は私にも想像つく。
その言葉は本音なのだと思う。
地位も名誉も関係なく、ただの高齢者として扱われる施設で、何をモチベーションにしているのかもわからない。
私の従兄弟に時々電話をしたり、訪問してもらって、自論を話すことが唯一の楽しみなのかもしれない。
人生の終盤になって、孤独しか感じられない父は気の毒だと思う。
私たちは、できれば寄り添ってあげたいと願ってきたが、怒鳴る、威嚇する、罵倒する、という形で返ってくれば、私たちの気持ちは向かなくなってしまう。
父と会った最後は、去年の2月3日だ。
あの日、私の家族全員を怒鳴られたことで、以来、父の施設に2度と訪問しないと私は決めた。
電話もしていない。
夏には、私の息子に会いたい旨を私の従兄弟に言い、従兄弟から息子に連絡があったようだが、息子は断った。
従兄弟から私にも連絡があったが、息子本人の意思に任せているので、私がどうこう息子に言うつもりはないと伝えた。
ただ黙っているのもいけないと思い、父に手紙を書いた。
何度も何度も書いては破り捨てることを繰り返し、やっと完成させた手紙は去年の10月に父に出した。
父は手紙を読み、激怒して、病気の妹に電話をした。
私は今まで、何度も努力した。
父と普通の親子の関係を築こうと頑張ったけれど、うまくいかなかった。
「子供の頃から、お前を怒鳴って悪かった」と、1ミリでも思ってくれたなら、私は救われたかもしれない。
その一言だけで、私は子供時代からの父の暴言を許すことができたかもしれない。
年老いた父を一人にしておくことなどなかったかもしれない。
私は、自分が育った家庭の中で、幸せだったと思ったことは一度もない。
父の人生は、幸せだったのだろうか。
【終わりに】
お読み下しまして、ありがとうございました。
なんとも尻切れトンボで歯切れが悪い終わり方ですが、結論は出ないまま終わります。
今はコロナのおかげで父の施設に誰も行くことはできません。
ただ、最近、ニュースに取り上げられ、国会でも厳しくやりとりのあった問題について、父の書いたと思われる文章(部下にまとめさせたようですが)がネットでも読めたので全文を読みました。
そのことで、従兄弟たちからの連絡が入ることがありました。
その従兄弟から
「そろそろ、あなたからおじさんに電話をしてみたらいかがですか」
というラインが来ました。
私は従兄弟に、父がお世話になっていることのお礼だけ述べ、電話に関する話はスルーしました。
従兄弟にはわかるはずのない、父と娘の66年の歴史があります。
どうしてこうなってしまったのか、本当のところ私にもわからないことを従兄弟に説明することはできません。
私が一つだけ、従兄弟に言えることがあるとするならば、
「普通の家庭に生まれたかった。」
最後に、私から父に送った手紙を添えます。
『十月に入り、随分と過ごしやすくなってまいりました。ご無沙汰をしておりますが、お変わりなくお過ごしのことと存じます。
九月十日に、Cが無事に元気な男児を出産し、曽祖父様になられましたこと、お慶び申し上げます。Cの産後ケア及び育児のお手伝いは、Sと私、ヘルパーさんとで交代に行い、順調に進んでおります。私も束の間、楽しいババ役をさせてもらうことができました。妹子の発病、今後の治療のこと、そして何よりも本人の気持ちを考えますと複雑な思いを抱えながらの赤ちゃんのお世話でした。
今日から妹子は移植に向けての準備の入院が始まり、移植後には辛い反応も予想されますが、どうか強い精神力で打ち克って欲しいと願うばかりです。
長期入院生活に入る前に、初孫ちゃんと存分に触れ合う時間を作って欲しいという願いから、国慶節休みで帰国していた夫の運転で妹子の家まで迎えに行き、Cの家へ連れて行きました。ちょうど休みだったSも一緒に行くことができ、しばし母娘3人の楽しい時を初孫ちゃんを囲むようにして過ごしていました。妹子の腕の中で様々な表情を見せる初孫ちゃんに癒され、妹子は治療への勇気とパワーをもらえたと喜んでいました。
Cが「家族っていいね」と、ポツリと発した言葉は、とても印象的でした。夫や私も含め、ビッグファミリーという実態を感じた瞬間でもありました。
幼少の頃から、私には家族の意味がわかりませんでした。思ったことを言えず、いつも緊張と恐怖があるのが家でした。
数年前、津田塾大学出身の平木典子さんの“アサーション“について学びました。
人には自分と同じくらい意見があるので、自分が意見を述べるのと同じだけ人の意見を聞くことがアサーティブな関係を築く基本であり、それこそが健全な人間関係を作るのだという内容でした。私は子供にも人格があり、尊重すべきと考えます。自分の子を育てる段階では、数々の失敗を重ねて参りましたが、子供から教わることも多くあり、親として未熟なところを育ててもらったと感じています。
意見の押し付けは一方通行の関係で終わってしまい、良好な人間関係を築くことができないものだということも学びました。
妹子も私も大切な家族が少しずつ増えていく幸せを感じ、姉妹の関係も絆が強くなっていることを嬉しく思います。
妹子の発病はとても悲しく辛いことですが、このことでCの出産をより一層家族みんなで祝福し、初孫ちゃんが私たちをさらに身近に引き寄せてくれたように思っております。
お彼岸に娘婿さんが車を出してくれて、多磨のお墓に参りました。相当に荒れていて、母の実家の後継ぎも母の妹の家族も墓参に来た様子はありませんでした。折れた枝やたくさんの落ち葉を娘婿さんが綺麗に掃除してくれる姿を見て、私にも良い家族が増えたことを改めて実感しました。生きている人の生活の方が大事だから、いいのよ、という母の声が聞こえる気はしたものの、あそこまで荒れ放題のお墓に呆れていることでしょう。掃除してくれる娘婿さんの姿を優しい笑顔で見守ってくれていたような気もしておりました。
妹子の今回の入院は、今までとは大きく違います。ガラス張りのクリーンルームで厳しく管理されることになります。私はお見舞いに行けません。家族もかなり厳しく制限されることになります。自分の悪いものを叩き出し、ドナーから提供された造血幹細胞が妹子の体内で新しく血液を作るという大変なことが行われるのですから、拒絶や様々な合併症も心配され、完全に正常に機能するまでには数ヶ月はかかります。
今までのように電話を受けられる状態ではないことをご承知おきくださいませ。
私はそろそろCのところに行く必要もなくなりましたので、3ヶ月留守にした中国に戻ります。生徒たちが待ってくれていますので、私は自分のやるべきことを粛々としながら、妹子の一日も早い快復を祈るだけです。
実家の様子は、娘婿さんと娘が時々行ってくれます。先日の台風の時には、仕事帰りの娘婿さんが行ってくれました。
妹子家族も、私の家族も、今は自分の仕事と生活を通常通り行いながら、心の中では全員が妹子のことをいつも気にかけています。
どうぞ一緒に祈ってくださいませ。
お父様もどうぞご自愛くださいませ。 十月十日 ゆーまま』