家族ってなんだろう(16)ー母の長い入院ー
母の最後の入院は2003年11月初めだった。
入院から2週間もしないうちに植物状態になり、そのまま意識は戻らずに1年7ヶ月ほどを病院で過ごし、2005年5月30日に亡くなった。
入院当初から、私が車で父を迎えに行き都心の病院まで一緒に通っていた。
毎日、慌ただしく最低限の家事をすると家を出た。
20分ほどで実家に着き、父を乗せて首都高を走る。
妹も同じ頃に病院に着いていた。
夕方まで母の病室で過ごしたが、人工呼吸器につながれた母との会話は、ほとんどできなかった。
病室でも父は不機嫌になると怒鳴り、怒って帰ってしまったことがあった。
その夜、母は自分で呼吸器を外して看護師さんたちに迷惑をかけたそうだ。
翌日、
「何かありましたか?お母さんは、昨日、興奮して自分で呼吸器を外しました」
と言われ、私は対応してくださった看護師や医者に事情説明とお礼を述べお詫びした。
母には強いモルヒネを使われていたため、幻覚症状が出ていた。
幻覚は本人には見えるものなので、私たちは認めてあげること、肯定して安心させてあげることを医者から言われた。
が、父は、
「そんなものあるはずがない」
と、母の言うことを頭から否定した。
病状悪化で辛い思いをしている母は、父の言葉で悲しそうな顔をした。
その日の帰りの車の中で、私は父に言った。
「お医者様が、幻覚は本人には見えているので肯定してくださいっておっしゃってたわ」
と、父にも協力してほしいことを伝えた。
父は怒鳴った。
「お前は、俺を否定するのか」
いや、父が母を否定していることを棚に上げて、何を言うか?
と、思ったが、
父は
「俺には、できない」
と、言って憮然とした。
母がここまで悪くなっても、まだ父は自分の意見を曲げない。
母への労りもなく、俺を否定するかと怒る。
頭おかしいに違いない。
人として普通にあるべき感情もないに違いない。
その代わりに、怒るという感情のみが満タンなのだろうと思う。
こんな父を持ったことを、私は改めて残念に思うと共に、父を蔑みつつ、言いたいことを言おうと思いついた。
私は、首都高をかなりのスピードで走らせながら、父に投げかけた。
「いつも、お父さんは私のことを否定してきたじゃない」
そんなことを言ったのは初めてだった。
父は私の運転する車の助手席で、命を私に預けている弱い立場にいたこともあり、私は続けて子供の頃からの父の暴言に対する私の悲しかった気持ちを伝えた。
父は想定外のことに相当驚き、頭に血が上り、口から泡でも吹き出さんばかりだったと思う。
新宿のカーブに差し掛かった頃には、命の危険を感じたと思う。
しばらくすると、
「ああ、どんどん言え」
と、開き直った。
たぶん、父は何も聞いていなかったと思う。
高速を降りた辺りで
「もう、終わったか。」
と、言い
「ところで、お前は長女として墓を守るのか。」
と、言った。
私の父への不満や悲しかった子供時代の話は完全にスルーされ、謝ってくれるどころか聞いてもいなかった。
そして、自分の言いたいことを考えていたに違いない。
「お前には長女教育をしてきたが、お前が墓を守らないなら、妹子に教育をしなければならん」
と、言った頃に家に着き、父は降りた。
車から降り際に、
「それで、明日は迎えに来るか」
と、言って家に入っていった。
その日の父の日記を後々に見たら
「あいつが、急にヒステリーを起こした」
と、書いてあった。
父には何も通じないことを思い知った。
私が子供の頃から、どんなに辛かったか、いつも否定されてばかりで悲しかったことなど少しでもわかって欲しかったけれど、私の気持ちは全く通じなかった。
父が娘に謝るはずはないと思っていた。
だから謝罪は望まないけれど、ちょっとでも悪かったかな、と思ってくれるだけで私は救われたと思うが、内容は聞いていなかったのだろうし、ヒステリーを起こしたと言うことにしてしまって、それが父の中での事実として残ったに過ぎなかった。
私は何度も父を信じてみようと思ってきた。
子供の頃から、大人になっても怒られてばかり、怒鳴られてばかりだったが、それでも父をどこかで普通の人だと信じたいと思っていた。
が、やはり間違っていたのだと思う。
父という人を私は甘く見ていたのかもしれない。
話せば少しは通じるのかと思っていたが、違った。
やはり父は脳に傷があると思うしかなかった。
障害なのだろう。
こういう人は結婚をしてはいけない。
万が一、結婚してしまったとしてもDNAを残してはいけない。
子供に向かって「子供は嫌いだ」という人は、子供を持ってはいけない。
この後、母の意識は無くなった。
それを機に、私と妹は交代で病院に行くことにし、父と私は別々の時間帯に行くことにした。
父は朝から電車で病院に行き、午後に私が病院に着くと、入れ替わりで病室を出て仕事に向かっていた。
そのようなことが長く続き、時には私は都合の悪い日もあり、病室に行けない時には従兄弟にお願いすることもあった。
1年7ヶ月のうち、ほんの2、3回のことだったと思うが、後々、父から
「お前はサボった」
と言われた。
妹より多く病院に通っていた私だった。
妹には、遠くからよく通ってくれたと感謝していた。
私はサボった数だけが父の印象に残ったらしい。
サボったわけではない。
夫が香港に単身赴任中で、私一人で子供二人のこと、マンションの理事会のこと、行政訴訟を起こした原告にもなっていたため弁護士のところや地裁にも通っていた。
もちろん仕事もしていたのだから、どうしても仕方ないこともあった。
家族が揃っていて、旦那さんが週末は食事を作ってくれる専業主婦の妹とは事情が違う。
そういうことを言ったことはないが、もしも自分の都合のことを言ったなら
「お前は、自分のことばかり言う」
と、怒られていただろうと思う。
お前は、いつも自分のことしか考えないと怒られ続けていたが、私から言わせれば、父こそ自分のことしか考えていない。
これがDNAかもしれない。
本当に嫌になる。
そして母の最期を迎えることになる。