家族ってなんだろう(14)ー母の病気と父

母は46歳の時(私が23歳)、山梨に父と二人で赴任し、そこで呼吸器の病気を発症した。
富士山5合目に行った時、酸素が少し薄いところでの息苦しさがいつまでも抜けないという自覚症状が最初だった。
東京の大きな病院で検査した結果、結核に似ている病気だが、結核とは違って人に移すことはない非定型抗酸菌症だということがわかった。


非定型抗酸菌(NTM)は、自然界の土、埃、水などに広く存在している。
誰もが肺の中に持っているとも言われているが、それが病気になるのは、ごくわずかの人だ。
古い結核の痕、肺気腫、気管支拡張症の人が発病すると考えられている。

基本的には対処療法しかない。
母は、抗菌剤、咳止めや頓服を処方されていた。

人に感染させる心配はないので、普通に生活できる。
3割程度の行動制限をして休養をとり、バランス良い栄養をとって穏やかに生活すれば寿命を全うできるほど進行は遅い病気だ。

だが過酷な労働をしたり、ストレスが満タンになるような状況では悪化する。

病気発症より遡ること10年ほど前、父が郊外に家を建てた頃から、母は風邪を引けばいつまでも咳が長引いていた。
たぶん気管支炎を発症していたと思うが、医者には行かず、漢方薬局で買った市販漢方薬を飲んで長引かせていた。
少々具合が悪くても家事を放り出すこともできず、夜明け前に起きて私の中学へ持っていくお弁当を作ってくれていた。
私自身、冬は暗いうちに家を出ていたので、母の辛さは理解できるが、その頃は自分の通学で必死だった。

母は晩年、あそこに引っ越したのが病気の原因だと言って悔しがっていた。
家を建てた時、庭まで手が回らず土埃が舞い上がっていて、引越しの片付けの最中、家の中はいつもザラザラしていた。
母は、ほぼ一人で片付けをしていたので、開けっ放しの窓から入った土を毎日吸っていたのが原因だと悔しそうに言っていた。
無頓着な人なので、マスク着用など考えもしない母自身の性格にも少しは原因があったかもしれないと私は思っている。


しかしそれより何より、父と二人きりの山梨生活が大きなストレスとして病気を招いてしまったのではないかと想像する。


山梨に着任した当初、母は毎晩8時になると、東京にいる私たち姉妹に電話をかけてきていた。
45、46歳の頃、子育てを卒業して夫婦二人きりの生活になることは、私だったら幸せな時間に感じるだろうが、母には辛い日々だったのだと思う。
母は父と二人の生活に耐えられない気持ちだったに違いない。


毎晩、母の愚痴は続いた。
「テレビのチャンネルが少なくて、面白いものをやっていない」
「友達ができない」
「出掛けようと思っても、行くところもない」
「お父さんと二人じゃ、話もない」
「買い物も、あまり行きたいところがない」
「地元の人は受け入れてくれない」

そのような電話が毎晩かかってくることが続いたある日、私は
「お母さん、本でも読めば」
と、冷たく言い放ち、用もないのにあまり電話をかけないで欲しいことを告げてしまった。

私には母を思いやる心の余裕がなかった。
私が父から怒鳴られ続けていた子供の頃、母に守ってもらえなかったことの裏返しだったかもしれない。
子供の頃からテレビを見せてもらえなかった私に、テレビ番組が面白くないなどと言われるのも不快だった。

今思い返せば、私も母の病気発症の一つの原因として関わっていたのかもしれないと自分を責め、後悔は大きい。

山梨での約2年間は、母には長い辛い期間だったかもしれない。
その後、東京都心の官舎で4人で住むことになり、前記事で紹介した私の24歳の誕生日事件が起こることになる。

母は、まだ、その頃は病気はあっても元気だった。
もともと日和見菌であり、本人が十分な体力と免疫力を持っていれば共存して普通の生活ができる程度の病気だ。

私が結婚し香港に出ている間、妹が独身で両親と暮らしていたこともあり、病状はさほど進まなかった。
母自身、自分の病気への自覚もあまりなかったと思う。

7年ほどの東京暮らしの後、父は最後の赴任地、仙台に母と赴くことになった。
妹は、ちょうどそのタイミングで結婚が決まり、仙台には両親だけで赴任した。

父の暴君ぶりはエスカレートし始めた。

仙台の官舎は、1000坪の土地に、9部屋ほどある平家の大きな家だった。
庭は専門の職員が手入れしてくれていたが、家の中は母一人で掃除をしなければならなかった。

古い日本家屋は、台所も風呂場も北側の寒いところにあり、廊下は冬場は氷点下になる程冷えていた。
台所から出て廊下を通って和室のリビングに食事を運ぶだけでも、気温差が激しく、病気の母には大変なことだった。
母の病気は、空気が変わるだけでも激しく咳が出る。
気温差の激しいところでは、体に大きな負担があったに違いない。

咳が出始めると、15分、20分と続く。
朝食を運ぶ途中でも咳が出ると動けなくなる。
そういう母に向かって、
「また咳か。咳をするな」
という父だった。

夜は布団に入って温まると咳が出る。
布団をかぶってなるべく抑えるように、遠慮して咳をしていた母。
朝は、起き上がるまでに咳が激しく、時には血痰が出ることもある。
それでも、父は容赦しなかったという。

雪の朝は、玄関から門までの通り道を雪かきしなければならなかった。
門の外には、黒塗りの公用車が迎えに来ており、父が乗ったら車が見えなくなるまで見送りをしなければならなかった。
帰宅は5時を少し過ぎた頃で、また門の前で出迎える必要があった。


私は、上の子が2歳で下の子がまだ0歳の時に、仙台に行った。
両親が仙台に行って半年後くらいのことだったが、母の病状が進んでいるのを感じていた。

台所で片付けをしていた時、また咳き込んだ母が、
「お父さんに、咳をするなって言われる」
と、泣いた。

私は、母が父のことで泣いたのを初めて見た。

昔から、母に対してもかなりきつい事を父は言っていたが、母が泣いた姿を見たことはなかった。

病気に理解を示さず、そればかりか咳をするなという無茶な事をいう父を私は人間として最低だと思った。

仙台の赴任は3年ほどだった。
父63歳の誕生日少し前に退職した。

東京郊外の家は、空き家になっていたのを取り壊し、仙台にいる間に新しく建て直してあった。
それは、私たち家族が同居する2世帯住宅だった。
家を建て直す時、同居を申し出たのは私だった。
いずれ私が両親の世話をしなければならないことは覚悟していたし、妹の結婚がなかなか決まらない時に、二人姉妹の姉が外地に出ているから妹の結婚に支障があると母から言われたこともあり、私が同居を申し出た。
それは、両親が仙台に行く前の時点で話を進めていた。

私は、子供の頃から父に怒鳴られ続け、嫌な思いしかなかったが、それでも長女であるから両親とうまくやっていきたい、普通の家族のようにワイワイと楽しく過ごしてみたいというかすかな希望があった。

が、家が建ってみれば、
「子供が小さいうちには、家に来るな」
と言われ同居はお預けになった。
そのうち、我が家は韓国転勤になって否応もなく同居は延期になった。


父と二人きりの生活は、母の病気の進行を加速させた。

ご近所の馴染みのある方々から誘われて、コーラスや陶芸サークルや体操教室に片足を突っ込んだ母だった。
まだ50代。咳のコントロールをしながら、理解ある方々にサポートして貰えば、趣味を楽しむことくらいまだできたはずだった。

だが、父によって全て止めることとなった。

父は公務員を定年退職した後、大学教授として呼ばれた。

父が家を留守にしている間くらい、母の自由はあって然るべきだが、父は近所の人たちとの交流すら歓迎はしていなかった。

母は自分の生きる喜びを見失った。
病気は、そういう弱いところに蔓延る。
母は、鬱状態になった。

父が出勤すると、すぐに寝て父が戻る1時間くらい前に、やっと起きて夕食の支度を嫌々ながらしていた。

ほとんど食事をとれず、見る見るうちに痩せた。

私が韓国から一時帰国するたび、母は別人のように痩せていた。

「ご飯が砂を噛むようだって、本当ね」
と、母は言った。

誰にも頼れず、母の妹に電話で訴えたらしいが、なんの手も差し伸べてもらえなかったらしい。

私たちがソウルでの数年間の赴任を終えて帰国した時、同居生活を始めた。
しかし、それは長続きしなかった。

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