家族ってなんだろう?(9)ー私の変貌ー高校から大学へ

高校受験のための勉強をしていた頃、ラジオの深夜放送が流行していた。
中学が遠いので、朝は6時前に起きなければならないというのに、深夜1時からの放送を聞きながら勉強していた。
当時の私は睡眠時間も少なく、通学にも体力を奪われ、勉強をやってもやっても父から怒られ、学校にいる時だけが息抜きの場だった。

父が望む東大一直線の高校への受験は失敗した。
そもそも受験科目が普通とは違い、私はそれらの科目を勉強することをやめていたので、不合格は当然の結果だった。
そして仕方なく次の道として、親が決めた私立の女子高に合格した。

高校時代の私は、やっと自分の居場所を見つけた思いだった。
高校のレベルとしては、そこそこの高い偏差値を求められる受験だったが、幼稚園から上がってきている人たちが多く、入ってみれば非常にのんびりした学校だった。
中学に比べて、かなり簡単で退屈するくらいに進度の遅い授業ばかりで、ほぼ寝て過ごした。
思えば中学の授業がハード過ぎたのだろう。
サイドテキストとして渡された1年分の問題集を、1学期の終わりには自分で終えてしまうほどで、まだ習っていないところまで予習をしていたために、さらに退屈な授業時間だった。
数学の問題集の中でわからない問題を先生に質問しに行けば、
「え??こんな先をやっているの?」
と驚かれ、先生もわからずに先生の宿題としてお持ち帰りになったことがあった。
教師もたいしたことないもんだ!と、思ってしまった。

国語の教師に、退屈な授業の上、テスト問題が教科書そのままの出題で、これでは国語力を問う試験ではなく暗記さえしていればできるもので無意味だと直訴したこともあった。

なんと生意気な生徒だったのだろう。
今思うと、顔から火が出る。

通学は1時間足らずになり、時間的な余裕が生まれた。

中学時代にはできなかったことを思う存分した。
バレーボール部に入ったり、生徒会の委員にも選出され活躍の場を広げた。

勉強はほとんど授業を聞いているだけで(半分寝ていたけど)、あっけないほど簡単に良い成績が取れた。

その頃から、私は世の中を舐めている、嫌な人間になっていった。

勉強だけでなくバレーボールも1年生の時から試合に出るメンバーに選ばれたり、合唱コンクールでは審査員になったり、生徒会活動は3年間中心メンバーとして活発に行ってきた。

父から勉強のことで怒鳴られることは減ったが、今度は私の活動に関しての横槍が入るようになった。

音楽活動を個人グループでやろうと立ち上げたものの、その練習にゴールデンウィークに出かけただけで怒られた。
友達の家で、ピアノとバイオリンなどの合わせを練習して夕方に帰宅したことがいけなかったらしい。
都心の友達の家は、郊外の不便な我が家から1時間半はかかる。
夕方の4時まで練習をしても、帰宅は夕食どきにぶつかってしまう。
それが父の逆鱗に触れる。
そして、音楽をくだらないものだと決め付けることもなんら変わっていなかった。

中学時代に全てにやる気を失くしていた娘が高校で様々なことに花開かせたことを、親なら喜ぶものだと思うが、父は違った。

音大の附属高校に行った友達を羨ましく思っていた私の気持ちなど、父にはわからなかっただろう。

ただ、この高校生活の中で、私は自分が父に怒鳴られるほどのバカではないということを知り、中学の時には欠落していた意欲というものが出てきたことを自分で感じていた。

今まで、さんざん「意欲がない」と言われ続けてきたのは、父から全てを否定されていたからだと父のせいにしていたが、そうではなく、
私自身が自分に自信を持てば意欲的になんでも取り組めることを知った。

そしてやればなんでも出来そうな気がしていた。

クラスメイトからテスト前に勉強を教えて欲しいと言われたり、信頼され、後輩からも慕われ、私のキャラはなんでもできる明るい優等生として作られていった。
そうなると尚更、「父に怒鳴られ、家族の団欒など無縁で卑屈に育ったこと」などカミングアウトできるはずもない。

勉強のことで父から怒鳴られることは減ったが、父は自分のストレス発散に私を怒鳴る材料を見つけようとしていた。
7時の時報が鳴った時に私がリビングにいるだけで怒鳴ったり、私の服装や髪型にも怒っていた。
(高校は私服登校だったが、私は中学の制服をそのまま着て通っていた。)

たぶん父は昔から、むしゃくしゃすると私を怒鳴ることで発散していたのだと思う。
そういう分析をするようになると、父を冷ややかな目で見るようになり、それは父にも伝わっていたのだと思う。

高校生になって生意気になっていると感じていたのだと思う。
いつか説教してやろうと待ち構えていたところに、私がやらかした。

それは、妹が水着を買ってきた時のことだった。
「どう?これ。五百円だったの」
と、妹が見せてくれた水着はいかにも安物の真っ白な水着だった。
「いいと思うけど、透けない?」
と、いった一言を、父は隣室で聞きもらさなかった。

いきなり私は怒鳴られた。
寝巻き姿になっていた父が、わざわざ寝室から出てきた。
「せっかく買ってきた水着にケチをつけるとは何事だ!」
ケチではないと思ったが、そういう時の父は手がつけられない。
それでも「妹のために言った」という口答えが、さらに事態を悪化させた。
私が、自分の主張をしたことが気に入らない。
父に何があったか知らないが、もしも、もしも私が妹の水着にケチをつけたのだとしても、
「せっかく妹が買ってきた水着に、そういう言い方をしてはいけないものだよ」
と諭すだけで良くないか?
ケチをつけたと決めつけ、そうではないという私の主張がさらに父を激怒させ、たかがこれくらいのことながら、その怒りは1時間以上も続いた。
そして最後には
「お前は傲慢だ」
と言われた。
そうなのか。

私は泣き疲れた。
妹の人格を否定したわけでもないのに、さんざん怒鳴られ、挙句に私は父に人格まで否定された。
寝られなかった。
私が傲慢だとしたら、父はなんだろう?
と思いながら、翌朝、私は自殺の衝動に駆られた。

自殺しようと思ったのは、父に怒鳴られ続けの17年を耐えてきたのに傲慢だと言われた言葉だったのかもしれないし、水着を買ってきた本人が何も言わずに隠れてしまったことだったかもしれないし、母もリビングに父と私だけを置いて逃げたからかもしれない。
いつものように私だけが孤立し、私だけが父に怒鳴られるというパターンに絶望したからかもしれない。

私自身の成績やテストの点数が悪くて父に怒鳴られるのは、母や妹にもかばいようがないとしても、妹の水着のことが原因で私の親切心と心配の気持ちで言った言葉が発端なのだから、誰かがかばってくれても良いのではないかという思いがあった。
しかし誰もがスルーした。
家族であるという期待を母や妹に持っても無駄だと感じ、これからも事あるごとに一人で父に立ち向かわねばならないと知った諦めだったかもしれない。
理不尽な怒鳴られ方は、もはや家庭内暴力だと思うが、それを誰も食い止められない。
今後もサンドバッグのように私が引き受けなければならないのだという絶望感もあった。

朝から電車を見下ろす橋の上にいたが、辛うじて踏み止まったのは、私の高校での優等生キャラが勝ったからかもしれない。

それからずいぶん経って後のこと、母に
「あの日、私は自殺を考えた」
と言ったら
「あら、そう」
で、終わった。

その後も父の怒鳴り声が変わらなかったことを振り返れば、母は父に娘が自殺まで考えたことも言わなかったに違いない。

そういう家庭だった。
あの頃から、私は家族全員に失望していたかもしれない。


高校3年で、私はピアノに戻った。
4年間のブランクがあったピアノは、一番大事な基礎固めの成長期を抜かしてしまったことで、今でも自分に自信がない。
2度もピアノをやめて戻ってきた生徒に、先生は本気で教えてくれるはずもなかった。
基礎練習ができていないまま、その部分をすっ飛ばし、私にいきなりショパンを突きつけてきた。

1年に1度のピアノ発表会のためだけに、ショパンの次はリスト。
難しいものばかりをぶつけてきた。
基礎が抜けている私は、身の丈に合わない難曲を1年かけて仕上げるだけで、ピアノはアクロバティックな挑戦でしかなくなっていた。
音楽性のかけらもない演奏は、友達からも格闘技のようだと言われていた。


ピアノへの情熱も冷めかけた頃、私は大学生になった。

教育の道に進みたいと思って選んだ学科で、私は小学校教諭の免許取得に向けて意欲を持ち始めた。

大学で児童心理などを学ぶうち、私の幼少期を振り返ることとなり、私はだんだんと辛くなっていく。

教科書に書いてある児童の精神発達の過程を学べば学ぶほど、自分が取り返しのつかない育てられ方をしたことを強く感じた。
自分でも、自分の育てられ方は違っていると薄々気が付いていたことの裏付けをされた気がしていた。

当時、私は学生運動に関心を持ち始めていた。

安田講堂事件からは年月が経っていたが、まだ最後の分子が活動を続けているような時期だった。
学生が集まれば「体制がーーー」と議論するような輪の中に、私も入っていった。

それは体制側にいる父への反発だったかもしれない。

思想的に父とは正反対のところにわが身を置くことで、密かに父に復讐するつもりでいたのかもしれない。

音楽を通じて政治を変えていこうという理想に燃えていた。

思想も音楽も否定するであろう父の姿を浮かべながら、私は父の嫌う方向に傾倒していった。


子供の頃から言葉の暴力と、恐ろしいほどの大声での罵倒と、目を三角に吊り上げた怖い顔で、父は私を支配下に置こうとしてきた。
私は意見も言えず、怖いから父に屈するだけだった。

そのことが間違いだったと証明された大学時代、私は父を遠くから侮蔑するだけで意見を闘わせることはなかった。
言っても無駄だと思って蔑んだ。
闘わずして最初から決裂はわかっていた。

宣戦布告したこともないし、相変わらず怒鳴られれば黙って耐えるだけだったが、心の中では父を斬っていた。

高校生から大学生へ、私の中で何かが少し変化したのだと思う。

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