父は元気です。

その後、「父の怪我」が、どうなったか?と、ご心配くださっている方もいらっしゃいますので、ご報告させていただきますと、、、

 私は見たわけではないので、すべて妹からの連絡によれば、すこぶる順調な回復ぶりだそうです。
耳たぶざっくり切れて、15針縫う手術をして頂き、その後は消毒のための通院をしていますが、経過良好で、本日半分ほどの抜糸をしたそうで、近日中に全抜糸するとのことです。

脅威の92歳! 年齢の割に回復が早いそうです。

大正生まれであることを誇りに思い、
何かにつけて
 「俺は大正生まれだ」
と、強調することの多い父ですが、大正も終わりの14年ですから、そこにどんな意味があるやら理解できません。
が、「大正浪漫」などの言葉があるように、特別な良き時代との思いがあるらしいです。
この先、平成の期限が決まったようですが、そうなると、ますます「大正生まれ」を自慢し豪語しそうな勢いです。

それはともかくも、大正生まれの92歳。この怪我をきっかけに弱ってきたところもあるように思います。
夕食にお弁当を宅配してもらうようになったことで、買い物に行かない、献立を考えない、キッチンに立つ時間も減り、料理の手順を考える必要もなくなったことは、衰えに繋がるのでしょう。

足元がおぼつかないので、消毒への通院にも、妹は片道2時間の道のりを朝早くから通っています。
 「どうせタクシーで行くんだから、ひとりで行かせれば~」
と、遠方に住んでいる私は、冷たく言い放ったのですが、

心優しい妹は
 「だって、足元ふらついて、靴を履き替えるのも危ないのよ」
と、言って面倒をみてくれています。

妹には、義母様の病院への付き添いや何かと身の回りのお世話する介護も、のしかかっているというのに、実家の父の面倒まで重なり、本当にご苦労様なことで申し訳なく思っております。
義母様のところも、実家の父のところも、妹しか頼れる人がいないのが現実です。


 義母様は息子二人しか産んでおらず、その一人は独身ですから、頼れる嫁は妹だけです。実家の父も、私たち姉妹しかおりませんので、頼みの長女が海外逃亡逃避、駐在赴任帯同中とあらば、頼れるのは妹だけということになります。

こんなことは、きっとあちこちのご家庭にあることなのでしょう。今までは、人ごととして「大変ね~」と思っておりましたが、現実に妹がその立場にあるのを目の当たりにいたしますと、公的な介護を喉から手が出るほど欲したくなります。ただ、なかなかそれが面倒であり、痒いところには手が届かないというのも現実だと思います。

認知症を基準に考えられているようなところのある介護認定ですから、
 「今日は、何月何日ですか?今の季節は何ですか?トイレは自分で行けますか?」
なんていう失礼な質問では、思うような結果は得られません。
頭がしっかりしていて自立できていながらも、突発的なことで生活に不自由が起こった人に対する判定は難しいです。

フレキシブルな対応が望まれるところですが、そこは、なかなかお役所仕事としては無理な注文なのでしょう。

ということで、動ける妹が無理を重ねて、東へ西へ、まさに東奔西走する日々なのです。それを良いことに、私は深センで能天気に暮らさせてもらっています。

 実は、ここ深センでの音楽イベントがもうすぐということもあり、すぐには帰国ができないという事情がありますが、それだけではありません。
ビザ更新という面倒な手続きがやってきます。ビザ有効期間は1年ですが、更新のタイミングを考えると11ヶ月程度になります。さらに、春節の時期と重なりますと、役所仕事がストップしてしまうため、そこを避けようと思うと前倒しになり、今年は年に2度の更新作業をすることになります。その2度目が12月に予定されています。

これの何が問題か!と申しますと、ビザ更新期間中はパスポートを提出していますので、国外に出られません。香港にすら行けない期間ということです。

いつも思いますのは、その期間中に日本で緊急事態が発生した場合、私たちは身動き取れず帰国もできないわけですから、どうなってしまうのだろう?という不安です。急いで手続きを進めてもらっても2週間ほどかかります。

これが海外生活の不便、不自由なところです。とくにこの国では、ビザ更新の手続きも煩雑で面倒です。

いつもながら、話がどんどん脱線してしまいました。
これだから、年寄りは!って言われちゃいます。
いや、この脱線傾向は若い頃から変わりません。

私が、今、身動き取れないことは、父が知る由もありませんが、ただ中国滞在が4年目に入っていることもあり

 「yu_mamaは、いつ帰ってくるんだ?」
と、妹に聞いているそうです。

その「いつ」の意味は、今回の怪我に対することではなく、完全に帰国し日本での生活に戻るのがいつなのか?という意味です。

 今までの海外生活は、だいたい、4、5年のものでした。それを思うと、そろそろ本帰国になるのではないか?という期待があるのでしょう。私が帰国すれば、父は私を自由に呼びつけることができ、私になんでもやらせることができると踏んでいるのでしょう。

そうなれば、自分は最後の最後まで自宅で暮らし、その生涯を自分の城で終えることができると思っているのでしょう。

いつだったか、父の姉がまだ存命中に

 「お前さんも俺も、自宅の畳の上では死ねないぞ!覚悟しとけ」
と、偉そうに言っていたことがありました。
つまり、連れ合いもいない一人暮らしの高齢者は、いずれかのタイミングを見計らって施設にお世話にならなければならない、施設が終の住処になるのだということです。それを伯母に言い聞かせておりました。

 その伯母は、いったんは施設に入ったものの、脱走、施設が合わなくて退出し、一人暮らしに戻りました。が、色々と面倒を起こしたこともあり、ひとりにはしておけなくなりました。
幸いなことに最後は長男の家に同居ができ、お嫁さんがかなり丁寧にお世話をしてくださり、良い生涯を終えることができました。

 父は、その姿を羨ましく思っていたに違いありません。独居老人仲間だと思っていた実姉が、長男の嫁さんに手厚くもてなされ、孫とも過ごせて、デイサービスで趣味に興じる充実の終末期を送れたのですから、父は自分だけが不幸だと感じているに違いありません。

 私は冷酷人間かもしれませんが、一応、今まで色々と父の思う通りに生きてきました。

父がひとりで慣れぬ家事を始めた頃、家の鍵を事務所に忘れたから家に入れないと連絡してきた時に、すぐに合鍵を持ってすっ飛んで行ったのは1度だけではありません。

夜にいきなり電話をしてきて、
 「家の鍵を忘れた。すぐ来てくれ」
と、言われ、慌てて車ですっ飛んで行っても、
 「来るのが遅い!」
と、怒られました。

 風邪をひいたと言われれば、薬を届けたり、食事の世話もしました。
骨折した時には朝晩の着替えに通い、朝5分の遅刻で怒鳴られても我慢して通い続けました。
医者に連れて行けば、医者を怒鳴る父にうんざりしても、通院介助を続けました。

 いつでも 父=怒鳴る が、ついて回りますが、それでも 長女=俺の意思通りに動くもの という期待に応えてきました。

 本当は、今でも父の面倒をみるのは私だ!という認識は強く持っています。怖くて嫌いで苦手な人ですが、私の義務であるという意識が潜在的にあります。父のスパルタ長女教育は、この年齢になった私にまだ染み付き、呪縛は解かれていないのかもしれません。

 父が、妹に「yu_mamaは、まだ帰ってこないのか」
と聞いた真意も十分理解できます。

 妹が
 「まだでしょ」
と、言ったひとことで、父はちょっとガッカリしたかもしれません。

 「一人暮らしは、そろそろ限界かもしれない」
という弱音を吐いたそうです。

 気丈な父、武士の(つもりらしい)父、初めての弱音です。

 冷酷無比で優しさのかけらもない私でも、父の思いを想像するに、中国にいることの罪悪感に襲われております。

 たぶん、理想としては私だけでも帰国し、実家に住民票も移して同居してほしいと願っているのでしょう。

 そういう父の思いは、遠方に住み離れていても、細部に至るまで想像でき、その想像があながち間違っていないであろうことも認識しております。

 そして父が直接、私に絶対に言わないであろうことも十分に知っています。

 私から言ってほしいのです。

 「お父さん、私が帰国して面倒みる」 と。 そういうことも、全てわかっています。


 

 でも、無理です

 現実に父と同居したら、私はたぶん先に死にます。

 
 父よ! いつまでも元気で、おひとりで頑張ってくださいまし。

この記事へのコメント

2017年12月03日 13:27
長女と言うものはそういうものなんでしょうか。我が姉も1歳にならないうちに父は戦争に行き、帰って来た時は小学生。軍隊帰りの父は何かあると言葉より早くビンタ、母がたまりかねて、女は嫁に行くんだから顔だけは殴らないでとお願いしたそうです。
姉は「私はこの人の子供ではないんじゃないか」と子供心に思っていたそうです。同じく殴られ続けて育った私は高校を出て就職した時、二度とこの家には戻らないと巣立ちました。
でもあれだけ父から殴られ続けた姉が結婚してからもずっと実家の父の面倒を見ているので、私も折れて付き合って来ました。女は分かりません、姉が親父を許さなかったから、104歳のオヤジの人生は孤独だったはずです。
yu_mama
2017年12月04日 00:12
サヤ侍さま
我が父より10歳以上も年上のお父上ですから、時代的にも今では考えられないような厳しい家庭環境だったのでしょうね。
サヤ侍さんのところは、ご兄弟が多いけれども、その中で長男長女への風当たりは強かったのでしょうね。
うちは、姉妹二人きり、長女と次女では全く違う育てられ方をしました。さすがに(仕事柄か)手を挙げることはありませんでしたが、それはそれは言葉の暴力は酷かったです。自分の虫の居所が悪いと、私のやることなすこと、顔つきまで文句をつけられ、感情的に怒られるのでたまりませんでした。

子供の頃に、暖かい家庭を経験できていれば、私はもう少し父に優しくできるのかもしれないのですが、恐怖心しかなく、針のむしろのような家庭でしたので、トラウマ酷くて、父の声を聞くだけで気持ちがザワッとします。

お姉様は偉いですね。私は、とても無理です。「やって当たり前」の上に、「やっても怒られる」ので、私の神経がやられると思います。地雷がどこに落ちているかもわからないので、地雷を踏まないという自信がありません。。。
2017年12月04日 08:05
大正生まれかー 彼氏! 負けたなー 完全
yu_mama
2017年12月05日 20:53
seizi05さま
大正生まれ、もう希少価値ありです。
絶滅危惧種!?(笑)
2018年04月05日 17:55
え!
お父様大正14年生まれだったのですか。
実は、以前勤めていた看護学校の初代校長が同じ年代の人でした。
今でも当時の同僚と怖かったねと話していたところです。
元厚労省の職員で、本当に怖かった。
職場は忖度だらけでした。

魔の大正14年、太平洋戦争もGHQも知っているのですよね。
私たちとは違う世代です。

yu_mama
2018年04月06日 00:16
パックさま
はい。大正14年。厄介な生まれの人です。(笑)
あの時代の人は、怖いのでしょうかね。元厚労相の職員でしたか。はい。うちも国家公務員。検察庁ですから、たぶん、厚労相よりもっと怖いですね。

魔の大正14年! 戦争の話もしますね~。
うちの父の場合、九州男児、しかも姉が5人いる末っ子長男。これだけで、いかに「殿」であるかがわかりますでしょ。世代も違えば、育ちも違い、本当に付き合いにくい人です。

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