Mくんとのお別れ
今回の一時帰国には、演奏会や母の十三回忌の他に もうひとつ目的があった。
私の大事な友達が、4月にご主人を亡くした。
そのご主人というのは、私の大学時代の友人Mくんだ。私がMくんと彼女と引き合わせたという経緯があるので、私にとっても大事な人を亡くしたことになる。
悲報を受けた時、すぐにも飛んでいけない距離にいることを恨んだ。
5月に一時帰国を予定していたこともあるし、深センでの活動に責任もあるので、私の勝手では行動できないことがもどかしい。
深センから弔電を送り、彼女宛の手紙を書くことくらいしかできなかった。
だから帰国したら、すぐに彼女に会いに行き、お線香を上げようと思っていた。
Mくんの家に行くのは、もう何年ぶりだろうか。お互いの子供が小さい頃には、たまに行き来していた。国内とはいえ、電車にいくつも乗らねばならないため、幼子を連れてのお宅訪問は頻繁には行えなかった。
その家は当時のままの建物だったが、庭は時間の経過を感じさせる木々たちの成長が見られ、しっくりと落ち着いた趣で私を迎えてくれた。
憔悴しきった彼女が
「遠くから、ありがとう」
と、小さな声で言う。
すぐに通された和室の中央に、Mくんが今にも
「おお!やっと来たのかよ」
と、声をかけてくれそうな笑顔を見せる。
何かを言いかけているような、幸せそうな笑顔の遺影は、お嬢さんが選んだものだそうだ。女の子のお孫ちゃんの初節句の日、上の男の子を膝に抱き、記念写真を撮ろうとした時に男の子が動いたので、「ほらほら、カメラを見なさい」と、言っているじいちゃんの顔だと説明してくれた。
元の写真を見れば、隣には彼女が初節句の女の子を抱いて、目の前にはたくさんのお料理がおいしそうに並んでいる。
幸せそのものの家族写真だった。
食事をきちんとしているかどうか心配だったので、お昼を持参して伺ったのだが、彼の遺影の前で1時間ほどもいろいろな話をし、そろそろ2時になるというところで
「あ、ごめん。お昼持って来てくれたんだったわね。あっちで頂きましょう」
と、彼女がふっと我に返ったように言った。
私の持っていった昼食を、ほとんど食べないまま、彼女の話は止まるところを知らない。時々、席を立ち、コーヒーを淹れてくれたり、紅茶だったり、日本茶を出してくれる気配りは、昔となんら変わらない。
「日中は、いつもこんな感じでひとりだったでしょ。だから、夜になったら帰ってくるだろうって思っちゃうから、寂しくも悲しくもなく過ごせるの」
と、言う。
連れ合いを亡くすということは、当事者でなければわからない深い衝撃と悲しみと喪失感と・・・いろいろあるのだろうな、と想像しかできないのだが、彼のことは私も若い頃にはよく知っている仲だったから、共有する話も多く、ほんの一部だけど共感し得る唯一の友達が私ということになるかもしれない。
大学時代のMくんは、見た目にはスリムで背が高く脚の長いロン毛のカッコいいヤツで、当時の「イマドキ」青年だった。明るくて、人懐こく、みんなでワイワイするのが好きな人だった。Mくんの田舎の夏祭りで出会い、グループで遊んでいた中の一人だった。友達の伊豆の別荘で、自炊合宿のようにして楽しんだこともあったし、河口湖や富士山にドライブをしたり、たくさんの思い出が私にはある。6、7人の男女でつきあっていたので、個人的にどうこういう気持ちはなかったが、彼がたまたま私の友人と会った時に、
「あの子、かわいいな」
と、言ってきたので、私が引き合わせた。
彼らの出会いは42年前、21歳の時だった。
「よくマラソンに喩えていてね。
42.195キロのゴール目前に心臓麻痺でテープ切れなかったりしてな。って言ってたのよ。
本当にそんなことになっちゃって・・・・・
本当に、そんなことになっちゃった。
そろそろ仕事も終えて、これからやっとのんびりと遊べると思ったのに・・・。
あと10年は、生きていて欲しかった。
仕事をがむしゃらにするだけの人生で、ゴール直前で本当に息絶えてしまったのよ。
仕事をやめたら孫たちと旅行したり、友達と遊ぶことを楽しみにしていたのに、
全然のんびりさせてあげられたなかった」
と、彼女は泣きながら、途切れ途切れに話してくれた。
治らない病気の看病を長くすることも大変だろうが、彼女のように
「朝、行ってらっしゃいって送り出して、そのまま帰らないんだもの。
何があったのか全くわからないんだもの。
たったひとりでね、逝っちゃったの。」
という、いわゆる急逝は、残されたものには実感も湧かず、なかなか受け入れられないのだと思う。
「まだ、ご遺体も戻ってこないところで、葬儀社の人と事務的な打ち合わせをして、どんどん決めなければいけないの。まだ亡くなったことの実感もないのに、葬儀の相談をしなければならないの。この祭壇だといくらだのって、そんな話をされるの。いい加減にして欲しいって思ったわ。」
と、ぽつりぽつり言う話を聞きながら、私は想像力を精一杯働かせ、彼女の心に寄り添い頷くだけだった。
なぜか私は涙すら出てこない。私にも実感が湧かないのだ。
いつしか外は薄暗くなりかけていた。彼女の話は止まらなかったが、そろそろ暇乞いをする。
最後にまた和室に行き、Mくんの遺影の前に座り、お線香を上げる。
私の心に沸き起こって来たのは「怒り」にも似た感情だった。
「なんで、彼女を置いて、こんなにも早くにひとりで逝っちゃったのよ!!」
別れ際に彼女に言われた。
「私、あなたと違って何もできないのに、彼は私をひとりにしたの。ひどいよね。
私は、飛行機にひとりで乗ることもできないし、旅行だって引っ張られないとどこにも行けない。
なんでも彼が頼りだった。そんな私をなんで置いてったのかしら。心配じゃないのかしら。
彼はね、あなたのfacebookを見ては、
『あいつは、凄いよな。いつも前向きで、深センでもどこでも元気にやってて凄いよな』
って、言ってたのよ。
私は、そういうあなたとは違うんだから、ひとり残すなんて許せない。
なんかね、腹も立つのよ。」
そうだよね。学生時代、私と仲良かった彼だけど、
「お前のことは放って置いてもひとりでやっていけそうだけど、彼女は誰かが守ってやらねばならん!」
って、言ってたじゃないの。だから、私じゃなくて彼女を選んだんじゃないの!
注:(あくまでも男女の友達グループのひとりという関係だったんですからね。。。私は他に好きな人いたし・・・)
Mくん! 私たちまだ63歳よ。早すぎでしょ。
田舎に別荘を作ったんですって?
みんなでワイワイ楽しみたいから、作ったって。
そこに私も招いてくれる予定でしたか?
あなたの理想郷、子供の頃から見ていた山を見られる位置にお風呂を作ったって聞きました。
好きな音楽鑑賞のために、凄いスピーカーを入れたって聞きました。
別荘を1度も使わずに亡くなったって、彼女が泣いていました。
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